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人生の分岐点

「ものづくりへの遠い道のり」

ハイエースとハイエース・スーパーロングの2台で私と他の社員とで全国の美容室まわりをしていたわけですが、月日が流れこの仕事にも大分慣れて順調にやってきたものの、私はこのまま一生営業と販売を続けることが、どうしても自分の人生において想像することが出来なかったのです。職人として、ものづくりの職人として生きていこうと思って飛び込んだかんざしの世界でしたが、今はものづくりをすることは一切出来ない状況になっていました。

それと私が30歳の時に岩手出身だった人と結婚していたので、何週間も家を空け続けることにも、難しさを感じていました。それで、出張さきの旅の先々で、いろいろ考えたあげく、お世話になっていた工房を去ることにしたのです。今まで磨いた技術があればなんとかやっていけるのではないか、と思いました。生まれて間もない娘と4歳の娘もいましたがあまり深刻には考えすぎないようにして、「また、スタート地点に立ったのだ」と、ものづくりの道に戻る決心をしたのです。どこかで雇ってもらう当てもなく、何の保証もない道でしたが、「これからは一人で自分の道を切り開いていくんだ」と思いました。いよいよこれからが本当のものづくりのはじまりなのだと決心しました。若さがあったからだと思います。先のことは何とかなるだろう‥、そんな気がしていました。

 小江戸とよばれる川越から離れ、新河岸という小さな町をはじめに、あちこちに住み、暮らしました。まず何からはじめたらいいのかわからなかったので、手始めに趣味のヘラブナ釣りの竿掛けを黒檀の木で作り始めました。材料の黒檀は東京の大きな材木屋から平板にしてもらったものを大量に買いつけてきたものです。黒檀は丈夫な銘木です。あと、ミシン鋸と鉄鋼用の旋盤を手に入れ、黒檀の竿掛け作りをはじめました。当時は珍しかったデザイン物の竿掛けで、それに彫りを入れた物もつくり、全部で100個以上作ったと思います。それを雑誌に宣伝を載せているような、名のある釣り道具屋に持っていってはひととき生活していました。けれどもある日知り合いにたまたま出会い、水道配管業の手伝いをしてくれないか?と頼まれたので、ほんのいっときの手伝いのつもりで水道の仕事に入ったのがきっかけで、気がつくと本当に長い間、水道関係の道で生きていました。独立してものづくりの世界でバリバリ仕事をするつもりでしたが、思った以上に現実はきびしく、ものづくりだけでは生活できないので、ものづくりは趣味的に考えたほうがよいのではないか、と思うこともしばしばでしたが、水道の仕事から帰って食事のあとは、ものづくりをつづけていました。かんざしを作っていたことから造形が得意でもあったので、木彫の香合(茶道の香木を入れるお道具)をいろいろ作るようになっていました。黒檀でつくった艶やかな【茄子の香合】や紫檀の木でつくった【柿の香合】(ヘタのところは黒檀を使って風合いをだしました)、ゴツゴツとした彫りにこだわった本物のような【ほうずきの香合】などもつくりました。あるときは床柱の余りの上等な紫檀の木を材木屋から譲り受け、【はまぐりの香合】をつくりました。木に細い年輪があるように、はまぐりの貝にも年輪のようなスジがあるので、この紫檀の木の細やかな年輪を生かせば、本物に近いはまぐりの香合ができるのではないかと思い、合わせ目のところなどをいろいろ工夫したり計算して作り上げたものだったので、費やした時間と比例して、思い入れも愛着もひとしおです。そのほかにもたくさんのすてきな香合もつくったのですが、殆どは生活のために、茶道の先生やお道具の収集の人に売ったりしていました。けれども「夢のような話だけれど、いつの日か個展を開くようなことになった時のために」と妻がこの先述の香合4点だけはしまいこんで売らしてくれなかったので、手元に残り、今、岩手の工房兼店舗にある小さな非売品のコーナーに飾ってあります。

 そうこうしてなんとか暮らしていき、水道の道でも施工管理の資格をとったりしてがんばっていたのでしたが、「自分はこのさきこの道の世界で暮らしていくことになるのだろうか?」と何度も思い悩んだりしました。そのうちに、妻の母親が年のせいか体調があまりよくない、とたびたび電話がかかってくるようになりました。妻は岩手から遠く離れた関東に住んでいる、2人姉妹の長女だったのです。私は水道屋だったら岩手だろうがどこだろうが、やっていけるだろう、と考え、家族と相談をして、思い切って妻の実家のある岩手県に行くことになりました。

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