先の見えない日々
「再びの出発」
東日本大震災のあとはまるで時間が止まったような日々でした。今はその時のことをうろ覚えに思い出して、何人かで集まって「あの時はどうだったっけ?」と話しては確認して「そうだった!」と思い出せますが、しばらくは空白の日々のようでした。
私も家族も命が助かり本当にありがたいことでしたが、これからの事が全くわからない状態でした。引っ越したばかりの家は借家だったのですが、あわてて逃げたため大切な、もったいなくて使えなかったような素晴らしい貝等の多くが海に流されていきましたし、大切な資料も本も、もう作る職人がいなくなってしまって大事にしまっていた道具もなくなってしまいました。私の父の形見である機械(ぐいのみや色々なものをつくるのに適していた手づくりの機械)は少し離れたところで見つかりましたが海水をかぶって錆びて(元々古くて調子の悪かった事もあり)修理が不可能で使い物になりませんでした。
妻は海で泥に埋まって残されていた道具や貝の束などを見つけてきては実家の駐車場で水をかけて毎日洗っては干す作業を続けていましたが、私はまた職人として仕事をすることは無いだろうとなかば諦めかけていて、電気が復旧してようやく見れるようになったテレビをボーっと眺めるだけの日々でした。
ある日妻に促されてまた被災した工房近くの海沿いの場所に行き、ふらーと津波が引いた跡地を歩いていた時、ふと足元の砂の混じった泥の上に使い慣れたノミ(彫刻等)を見つけて「ウソだろ~?!」と大声で叫んでしまい、驚きと嬉しさでしばらく動けませんでした。(これは以前にかんざしの修行時代のところで書いたノミです)私の手に馴染む何十年も使い続けてきた、私にとって本当に貴重なノミでした。こんな小さなノミが一度は海にのまれて見えなくなっていたにもかかわらず、また私の手元に戻ってきたのです。
私はもう一度このノミを使って職人としての仕事を続けるべきなのだな、と思いました。
仕事再開の気持ちを伝えると妻は「みんな流されちゃったから鉛筆一本からの買い直しだね」と言いました。
それからまもなくしていつも展示会でお世話になっていた会社から千葉の柏髙島屋で復興支援を兼ねた岩手展をするから出店しないかという誘いを受けました。津波の時、日本橋高島屋に出品するためにまとめて、作りためていた商品を持って逃げていたため、そっくりそのまま残っていた商品を持って、本当に久しぶりの展示会に出ました。
私達が最後まで連絡の取れなかった業者だったそうで、「無事でよかった」と声掛けしてもらい、わたし達のほうこそ忘れずにいてくれて呼んでくれたことに感謝しました。そしてお客さん皆さんのご支援と温かい心で岩手展は大盛況に終わりました。本当にありがとうございました。あの時のお一人お一人のお客さんの優しさは忘れません。そして私もこの催事によって、「またやっていけるかもしれない!」という自信のような希望のようなものを見つけることが出来たような気がしました。
工房となる家探しは被災直後から始めていたのですが、多くの不動産屋が被災しており市役所に相談に行っても住む家も無い状態なのだから、工房を探すのは無理でしょう、とのことでした。それで親戚にも相談してみたところいろいろな意見があったのですが、その中の「思い切って盛岡で仕事をしてみたらどうだ?」という意見に背中を押されて盛岡で新しく出直すことを考えはじめました。
妻の両親のことは心配でしたが、高齢ではあるものの、二人ともまだ元気で宮古を離れる気持ちは全然なかったため、妻が盛岡、宮古間を往復して様子を見に行きながら、デイサービス、ショートステイ、その他、様々な福祉のサービスを利用しながらやっていくことになりました。
盛岡でも希望しているような家はすぐには見つからず、盛岡の高松にいったん居を構えてじっくりと探していたところ、盛岡市内から離れてはいましたが、松園に(とても古くてリフォームが大変でしたが)私達の希望に近い工房兼お店(兼自宅)を見つけ、そこで製作に打ち込むことになりました。