かんざし工房の移転
「職人としての迷い」
私が中学を卒業するあたりに、目黒にあったかんざし工房は、埼玉県川越市の町はずれに移転しました。工房の周りを見渡すと畑が一面に広かっていました。その工房の2階に上ると、春先には1キロ以上離れているのではないかと思われる伊佐沼という沼の水面が、キラキラと光って見えたのを憶えています。
夕方6時頃に街の方に行ってみるとまだ6時だというのにほとんどの店が閉まり、人も歩いていないところで、夜の9時、10時でもやっている店が多かった東京で育った私は驚いてしまいました。あまりの違いに信じられなくて「嘘だろう-!」とびっくりしました。昭和40年ころのことです。
かんざし職人になろうと思った理由のひとつに、川越の工房の近所のおじさん、おばさんや、風呂屋で知り合った人たちから「手職を身につけるのが一番なんだよ」と言われたことが多かったからです。「床屋とか寿司屋とか技術を身に着けると一生食っていかれるから。」というのです。私は勉強は好きじゃなかったし、親戚がやっていたかんざし工房ということもあり、かんざし職人になることを決めました。
浅草の仲見世のあたりには、お正月前の暮れのあたりからかんざしを売っているお店も当時3軒くらいあり、正月になると着物姿にかんざしをつけた女性がたくさん歩いていたので、かんざしの勉強にと見に行ったりしたものです。
後にテレビの時代劇などに、かんざし職人の現役時代に作ったかんざしが使われていたりして、それを見かけると当時のことを懐かしく思い出すのでした。
当時私の通っていた東京の中学では1つの学年で5、6組あり、私が卒業した学年で高校にいかなかったのは男女合わせても7人だけでした。そのころ手職を身に着ける職人を目指すなら中学卒業の15歳くらいが一番よいとされていましたが、だんだんとそれも変わってきたようでした。
その当時は集団就職の盛んな時代で、田舎から出てきた中学を卒業したばかりの子供達が東京に大勢やってきていましたが、東京の中学生は進学する人の方が圧倒的に多かったのです。
そうして始めたかんざし修行でしたが、1年ほどすると「高度成長期だ」とさかんにテレビやラジオで言われはじめ、世の中は高景気に沸いているようでした。
「自分はこのような時に昔ながらの「かんざし」をつくっていて本当にいいのだろうか?」「時代に取り残されてしまうのではないか?」という焦りと疑問が生まれてきました。
また、東京に比べて遊ぶところも少なく、昔ながらの友達とも離れていたため寂しさと孤独を感じるようになっていたこともあり、ある日突然工房をやめ、新聞広告で人を募集していた、大田区の西糀谷にあるプラスチック工場にいくことに決めたのです。