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再び工芸の道へ

「自分の選んだ道で生きていく決意」

私が転職した会社(工場)は何を作る工場かというと、プラスチックを使ったもの作りをする工場で、主に塩化ビニールで特殊なネジを作っていました。そのネジはメッキ工場や、酸性の液体を使う工場で使われるネジで、鉄のネジだと溶けてしまうので、酸に強い特別なネジを主に製作していました。また、種子島宇宙センタ-で使う固形ロケット燃料の棒状のものをロケットの筒の中に装着できるように丸く削る仕事だったりとか、札幌オリンピックのトーチのサンプルを作ったり、様々な特殊な仕事も請け負っていました。そのためそれぞれ受けた仕事に合せて工具や旋盤の刃とか加工する道具も創意工夫が求められ、図面通りに作るにはどうしたらいいか、常に考えなければならない、仕事でした。

それぞれの仕事を見ていて「なるほど、こうやって作るのか!」と驚いたり感心したりすることの連続の日々でした。それまで私が知っていた金属加工の常識では考えられないような加工の仕方をするので、見ていてとても新鮮で面白さを感じました。

またその当時、自分の車のバックミラーを、ガソリンスタンド等で並べて販売しているものと付け替えてオシャレに自分好みに変えたりすることが流行っていたのですが、それを展示販売する時に必要な、透明な塩化ビニールで12個を収められる仕切りのついた箱の大量注文が入りました。私は当時18~19歳だったのですがその仕事を担当するように言われ、その工場とは別の大きな建物の一角を借りたところで製造を始めることになりました。

まず透明な塩化ビニールの板状のものを切断機で裁断して、電熱線を使って温め、90度にに折り曲げて12個商品が入るケースを作るのがわたしの仕事でした。

当時一緒に仕事をしていた人達は皆アルバイトの大学生で、東大、青山、上智などの有名大学の苦学生たちみんなで工夫して苦労しながら作ったものでした。

製造工程も整い順調に仕事が進み始めました。そんなある日、発注元の会社の専務が趣味のスキューバダイビングをしていた最中に事故にあって亡くなってしまったのです。

それと同時に仕事の発注がなくなってしまい、私の仕事もなくなってしまったのです。私が転職して東京での生活が1年ほど経ったころのことです。けれどもその間、

そこの社長にはモノづくりの考え方とか、何もないところからものをつくるということは創意工夫と努力によって作り上げるものだという基本理念のようなものを、たくさん教えてもらいました。

コンピューターが世の中に入りつつある時代でもあり、機械で一個一個ものを作っていとく時代の終わりが来るのではないか、とも感じたりしていました。またその工場は流体形とか化学薬品などを使ってプラスチック部品を作る会社だったので、中学しか出ていない私には自分の力が発揮できるところではないと感じていました。

けれども私は本当にものづくりが好きで、それも一個一個手作りで仕上げていくモノ作りが性に合っていると思っていたので、いろいろ考えた末にそこの工場を辞めることにしました。

そこの社長とはとても気の合う関係だったので、私のことを何度も引き留めてくれました。

一度はやめてしまったけれど、やはり私はかんざし職人の道に戻ることにする、と社長に話しました。社長は「工芸でメシを食っていくことは時代じゃないからやめた方がいい」と私に言いました。かんざしとか工芸の道は芸大卒とか有名な先生にでもつかない限り、世に出ることは不可能で、一職人として消えていく運命にあると私に悟らせようと話すのです。

けれども私は自分の好きなものを作って生きていきたいという希望があり、手職の職人や技術は細々ではあってもすたれることはないと思っていました。 昔聞いた職人さんの話で、戦争中でもアクセサリーの職人は生活ができたというのです。それは戦争や政情が不安定になったりすると、女性は美しいものを見たり身に着けることで、無意識に心の安定を図るものなので、アクセサリー職人は食うことに困ることはない、と教えてくれたのです。
それを一つの心の支えに好きな工芸の道で頑張っていこうと思ったのです。

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