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かんざしの発展とその時代

「華やかだった1980年代」

私が再びスタートすることになった「かんざし工房」は、結婚式場の笄(こうがい=6本組みのかんざしセット)や、お正月に使うかんざしなどを作る製作所でした。

私は前回載せた基本技法(ほんの一部でしたが)等を習得して精進を重ねていったわけですが、今回からはそれを使った製作過程や、いかに商品を創りだしたらいいか、という私なりのお話です。

納品先が主に結婚式場や美容室だったので、(昔は笄は鼈甲で製作するものだったのですが)本物の鼈甲を使用すると高額すぎてしまうので、それに風合いの似ているアクリルやセルロイドの板を使用して笄やかんざしを製作していたのです。

まず材料となる薄い板を準備し、糸のこで手切りをして透かしと彫りをいれたもの、ミシン鋸で図柄に切ったもの、温めてやわらかくして型で抜いたもの、大きく分けるとこの3種類でデザインに合わせて作ります。

螺鈿を含む蒔絵の職人さん、櫛の職人さん、磨きの職人さん等、外注に出しているパーツもありました。その中で、かんざしの飾りとしての花の芯に使ったスワロフスキーのパーツは、スワロフスキー社が東京に初めて作った販売事務所で、そこからの誘いがあり、かんざしのパーツとして買いつけに行った物でした。

スワロフスキーのパーツは輸入品なのでドルの変動で毎日値段が変わるため、多めの現金を持って出かけなければなりませんでした。

サンプルとしていろんな使えそうな石(という表現を相手方はしていました)を提供してもらい、花の芯以外にもたくさんの飾りに使いました。

一枚の板から花のパーツの原型を切り出し、菊・牡丹・バラなどの花の飾りをたくさん作っていくのですが、ひとつの作り方として、コンロの上のヤカンのような道具で沸騰させた蒸気で、切り出したパーツをあたためては平らな花びらを丸くまるめて立体的に作っていくのです。一段目はピンセットで一枚おきに花びらを花の芯に巻いていき、2段目3段目は少しずつ大きさを変えて作ったパーツを順々に重ねて巻いていくのです。本物の花のようなできあがりになるよう仕上げていきます。

そのようにして完成する立体的な花のパーツを使うことによって、6本組のかんざしである笄(こうがい)やお正月に使うかんざしに華やかさと豪華さをもたらすのです。

輝きがひときわ美しいスワロフスキーの芯のついた、美しい花のパーツの出来不出来で笄やかんざしの商品価値が大きく変わってくるので、どのようにしたらより華麗な花を作れるかはとても重要でした。それで花びらに1~2本の細く浅い筋をいれるのですが、いかに早く繊細な筋彫りが出来、一日に完成する花の数がどれくらいかで、その職人の技量が問われるのです。

たとえば同じデザインで作ったとしても一人ひとり【彫り筋】というものが違います。それでその彫り筋を見ればどの職人が作ったものかがすぐわかるのです。それは上手い下手というのではなく、人それぞれの個性が出るもので、手づくりのものはなんでもそうだと思います。したがって、ひとことに「彫り」といっても竹や笹のようなスッとした潔い筋彫りや、扇のような正確な彫り、花びらの可憐な彫りというように、彫りというものはその商品のイメージを決める重要な要素のひとつといえます。

その当時の一般的なかんざしを作る工程としては、材料を熱でやわらかくしてから型に入れて機械でつぶして鶴や亀を作ってバリを落として製品化する方式が多く、うちの工房のように立体的に花を作ってあしらう笄やかんざしを作っているところはあまりありませんでした。

そのころは大きな結婚式場で文金高島田で結婚式を行うことが当然のことのようになり、それに伴って、例えば姉妹の結婚式の時のかんざしが同じものだと、あとで写真を並べた時に同じではおかしい‥、という風潮になり、違うかんざしを使うようになって、お式用と披露宴のお色直しのかんざしまで変えるようになったくらいです。そのような事もあって結婚式場でも2~3年に1回、花嫁かんざしの入れ替えをするようになったので、1980年代頃は、かんざし業界が一番栄えた時代だったように思います。

そのため、なかなか数の上がらない手作業のかんざしの代わりに、成型で作るかんざし工房がどんどん増えていったのです。

はじめは3軒しかなかったかんざし工房の、その1軒だった川越のかんざし工房も生き残りを賭け、自社工房で間に合わない分はたくさん外注に出して生産性を高めるようになっていったのです。そうすると、かんざしの職人として働いていた私も営業や販売に駆りだされるようになり、北海道から名古屋のほうまで全国を回るようになっていきました。

それで、かんざしの職人として目立てにはじまる糸鋸作業、直角の彫刻刀による彫りや立体造形などの腕を磨いていた私の職人時代は、約15年でストップしてしまいました。

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