人生の楽園
「宝くじにあたったような話」
岩手で水道の仕事に就いて落ち着いた生活を送る日が続いていました。私は地元の工芸の会に所属して仲間達とときどき作品を展示したりしていました。けれどもしばらくして私が働いていた水道工事会社がある日突然倒産してしまったのです‥。急に失業してしまった私は呆然としながらも毎日職探しに必死でした。けれども当時年齢が50代後半だったこともあり再就職先も見つからず、この先どうしたものか、と思っていました。失業保険も切れたので経済的にもいよいよきびしくなり、これからは仕事の合間の趣味としてではなく、ものづくりで生きていくしかないのだと悟りました。
とりあえず手馴れてきた帯留を作ろうと思い、かんざし職人時代の花鳥風月の感覚はなるべく出さずに、現代風の新しい感性の作品を作りたいと思っていました。
そのような折、岩手県の工芸のコンクールがありそれにむけて、白蝶貝を糸鋸で金魚の形に輪郭を切りとりヤスリをかけてなめらかにして、彫刻刀で彫りを入れた「白蝶貝 帯留」を完成させ出品してみました。すると思いがけず賞をいただき、主催者側の関連の人から、懇意にしている髙島屋のバイヤーがちょうど今度来る事になっているので、ほかの作品も見て貰ったらどうだと言われて、帯留と平行してつくっていた螺鈿の茶道具があったのでそれも数点お預けすることになりました。
仲介してくれた人の話では、バイヤーに見てもらったところ、「非常に珍しい面白い商材だ」とのことで、ちょうど京都・大阪・日本橋と3週続きの展示会があるので、「是非出品したほうがいい!」とのお話だったそうです。私は作品をお預けしたひとに「はじめてなので東京の髙島屋だけで十分です」と答えました。本当に嬉しかったので謙遜ではなくそれが本心だったのですが、「出たくても出れない業者がいっぱいいるというのに、なに贅沢言ってんだ。全部出ろ!」と怒られました。地元ならともかく、そんな大都市で私の作品がうれるのだろうか、と不安な気持ちもあったのですがせっかくの大きなチャンスだったので挑戦してみることにしました。アクセサリー中心の商材という事もあり妻と二人で売り場に立つことに決め、全国に向け、実質的に澤井工房を立ち上げることになったのです。
作品を作って直接お客さんの要望をきくことのできる展示会の仕事は、かんざしの販売をしていた頃からとても大切だと思っていたので、お客さんの声にはよく耳を傾け作品に反映しようと思いました。
当時は髙島屋さんをはじめとする百貨店では、なん月にはどの百貨店、そのあとはここ、というように出店する時期が決まっていたので、それにあわせて一生懸命作って販売するという生活がはじまりました。
そんな生活が2~3年続いた頃でしょうか、ある日テレビ朝日の「人生の楽園」という番組のリサーチ担当の人から突然電話があり「【人生の楽園】に取り上げたいのでまず下見に行かせて貰っても良いでしょうか?」という信じられないお電話をいただきました。こちらの新聞に小さな記事として私の工房のことや初めて作った帯留のことなどが載せられていて、「とても興味深い取り組みなのでお電話しました」とのことでした。私も家族もこの「人生の楽園」はとても好きな番組だったので、「いつかウチも取材してもらえるといいよねぇー」と夢のような話をしていたのですが、それが現実となって目の前にやってきたのです。
ディレクターがまず現地取材にやってきて会社に持ち帰り、okがでたので日本橋高島屋の展示会での様子や普段の作品作りの生活の様子など、撮影隊クルーがやってきて一週間ほど取材して帰っていきました。取材したからといって放映されるかどうかはわからないと、はじめの段階から言われていたのですが、放映されることが決まったとの連絡が入り、2010年(平成22年)4月に「人生の楽園」で紹介されました。
作品を初めて見てくれて出店を進めてくれた髙島屋のバイヤーからは「宝くじに当たるより確率の低いテレビからよくお呼びがかかったね」と喜んでくれました。
それと放送された時に、次の展示会の柏髙島屋の広告をテロップで入れてもらったので、そちらのデパートへ大変大勢のお客さんが来ていただけました。メディアの力を思い知った出来事でした。 私は本当に運がいい人間だな、と思います。いろんな分野で私より腕のよい職人はきっといっぱいいると思うのです。けれどもたまたまテレビで全国に紹介され、展示会もよばれるようになり、周りの多くの人達に支えられながら今現在も、ものづくりの生活で暮しています。本当にありがたいことだなあと感謝の気持ちでいっぱいです。