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東日本大震災

「突然の出来事」

テレビ放映の後、あちこちの展示会によばれ、全国の百貨店をまわる日々がつづきました。
いろんな土地へ行き、今まで知らなかった未知のものに触れることは楽しみ半分、大変さ半分でいろいろありました。

展示会つづきの生活は、(以前書いたように)かんざし職人時代に全国をかんざしの販売でまわっていたことと、やっていることは同じであり、昔の職人(今も多くの人がそうであるように)毎日同じ場所でじっくりとものづくりに向かい合うという職人ではなく、私はいろいろなものをその土地で感じとりそこに住む人々からいろんなものを吸収してそれを作品に表現していくタイプの職人なのだなあ、と気がつきました。けれども今は展示会で待っていてくださるお客さんの存在があり、第2のふるさとになった岩手の自然の恵みのすばらしさを全国のみなさんに螺鈿を通じて紹介できることはとても嬉しいことであり、やりがいのある仕事だと思っています。岩手の自然の恵みである非常に良質な浄法寺漆、三陸の海の豊かさの象徴ともいえるピンク色が特徴の三陸の美しいアワビ貝などを使って自分自身の表現としての螺鈿の世界を展開できることは大変ながらも充実した毎日となりました。

けれどもそれから約一年後、妻の実家の敷地にあった小さな工房と住居を同じ宮古市内の海のそばに移転してまもなく、東日本大震災が起こりました。

その日もいつものようにラジオをかけながら仕事をしていたのですが、いきなり下から突き上げるような大きな地震がおこり立っていられないようなひどい揺れ方に「これは普通の地震ではない」と直感的に思った私は、一週間後に控えていた日本橋髙島屋の展示会のためにコンテナにひとまとめにして準備していた作品とすぐそばにあった材料や道具を、一緒に働いていた妻と義理の息子を車に乗せて、少し高台になっているついこの前まで住んでいた妻の実家に向かいました。

何度もおこる余震とラジオから流れる津波が押し寄せている情報を信じられない思いで聞きながら車を走らせました。避難の途中で「避難指示の放送」が流れているにもかかわらず、危機感がないのか普通に道を歩いている人や、大したことがないと判断したのか、この状況でも作業を続けている顔見知りの水道事業所の人に「逃げろ!逃げろ!津波が来るぞ~!!!」と大声をかけるのが精いっぱいで、必死に海のそばから逃げました。実家に戻る道の途中に陸橋があるのですが、そこは車が渋滞していて動けない状態で、陸橋に何本も立っている街灯が地震がおこるたびに生き物のようにグニャグニャと揺れて恐怖を感じたのを憶えています。渋滞から解放されようやく妻の実家にたどり着き、高台の方から海を見た時、遠くに白波を立て津波が宮古湾の奥に入っていくのがみえました。また津波の引き潮がいろんなものを引きずっていく様や、また押し寄せてくる波もあったり、工事用の台船がさまようように右に行ったり左に行ったりして、なんとも言葉では言い表せない状態になっていました。実家の中に入ると停電していて携帯も繋がらず、娘と孫の行方がわからなくなっていました。ラジオの電池も切れてしまい今どんな状況になっているか全くわかりませんでした。当事者でありながら私たちはどれほどの被害なのかどんな状況なのか全くわかりませんでした。家族みんなで一つの部屋にかたまるように寄り添い1個の懐中電灯を一晩中つけて、余震が続いていたので、いつでも逃げられるよう洋服を着たまま布団をかぶって雑魚寝のような状態で横になりました。「娘と孫はきっとどこかに避難している」と信じながらも、どうしようもない不安を抱えたまま眠れぬ夜を過ごしました。

行方の分からなかった娘と当時2~3歳だった孫は、娘と同じ職場の人と大きな揺れの後、近くの山を目指して登っていたそうです。他の多くの人も同じように上を目指して登っていたそうです。だんだんと日が陰り薄暗くなってくると山の方にあった家の人が娘たちとあと何人かの人達を家に招き入れ、その晩はそこに泊めてもらえることになったそうです。もう夜になっていたので土鍋でご飯を炊いてくれて、おにぎりまでごちそうしてくれたというのです。他の避難している多くの人は3月の寒い夜に震えて過ごしているときに、見ず知らずの孫と娘を助けてもらったことは本当にありがたく、忘れられない出来事です。

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